東京五輪MTB日本代表内定 山本幸平 五輪への道
【Profile 】
山本 幸平
1985年、北海道出身。幼少時より自転車に親しみ、小学4年生でMTBの初レースを経験した。高校時代はレースを転戦し、3年時に初めて国際大会に出場。以降は本場ヨーロッパでのプロ生活に憧れを強め、国際自然環境アウトドア専門学校を卒業後に渡欧してプロとして活動した。オリンピックは北京以降3大会連続出場中で、アジア選手権優勝10回、全日本選手権シニアクラス優勝11回。現在は松本市に本拠を置き、プロチームDream Seeker MTB Racing Teamを運営する。
長野県ゆかりのサイクリストをはじめ、自転車に関わる人々にインタビュー。これまでの来歴や、この地で自転車を満喫する姿を紹介する。
――自転車競技を始めたきっかけはお兄さんの友人がきっかけだということですが、どんな部分に魅力を感じましたか?
北海道の十勝地方で生まれ育ったのですが、ゲームとかは全然やらない子どもで、兄とその友達の兄弟2人の4人でいつも遊んでいました。その遊びの一環が自転車だったんです。遊びは毎日の学校が終わってから、日が暮れるまで…というか日が暮れてからも。自転車を使いながらいろんな遊びをしていたというのがきっかけです。「土手などをどうしたらスムーズに通過できるか」とか「ジャンプはどうできるか」とか。あとは前輪を浮かせて走るウィリーや後輪を浮かせるジャックナイフをとか、そういう遊びをしていました。
子どもの頃から色んなスポーツをやってはいました。中学、高校は卓球部で、所属しながらMTBのレースに出ていました。もちろん十勝地方で盛んなスピードスケートやスキーも授業でやりましたし、野球の少年団も入っていました。スポーツが単純に好きだったんです。あまり勉強とかゲームはやらずに体を動かすのが好きな子どもだったので、自然と動きを求めていました。
その当時はMTBが流行っていた時期だったので、親が買ってくれて自然とMTBがありました。成長していくと行動範囲もどんどん広くなっていって、自転車で「あの山まで行きたいね」という話になって山道を上って、下って。自発的に野山で自転車を使っていた遊びが、あとになって「クロスカントリーだった」ということに気付きました。小学4年生で初レースを経験しましたが、その前も後も結局はずっと遊びです。このスタンスはいまだに同じ。MTB競技は自然との競技なので、遊びの延長線上というか、遊び心はありながら…というイメージですね。
――クロスカントリーの魅力はどんな部分でしょうか?
レース以外で最も魅力だと思うのは「五感」を感じられるところです。日常生活だとなかなか感じられない風や空気の匂い、枯葉を踏んだときの音とか野生動物との出会いとか。一歩MTBで山に入ると、特に1人の場合は本当に「自然対自分」の関係になって、一瞬で非日常に入れるんです。石ころ一つで転倒してしまう山の一本道で、そこで転んでしまったら…などといったリスクはあるわけですが、その分だけ「生きている」ということを明確に感じられます。ワイルドなんですよ。個人的にはちょっとスリリングなところが好きな性分だというのが単純にあるのかもしれないですけどね。
レースの魅力は「迫力」です。マラソン競技と一緒で東京オリンピックは37人が同時にスタートします。1周12分くらいの周回コースなんですが、迫力ある一斉スタートとともに山道をすごいスピードで下ってジャンプしたり、すごい急坂を登っていったり。「えっ、こんなところも登れるの!?」と感じられるような急坂や、そこを走り抜ける速さ、そのコースを複数人で競い合うシーンは本当に迫力を感じられるものです。日本では目にする機会が少ないので理解されにくいのが現状ですが、正式なオリンピック競技としてありますし、海外では本当に人気な競技です。
だからこそ、レースはやはり生で見てもらいたいですね。画面を通じてだと坂の斜度が全然緩く見えたりして伝わりづらい部分もあります。例えばスキーのジャンプもそうで、テレビで見ていると簡単に飛んでいるように見えるのが、実際に見てみるとものすごい急斜面。僕たちもそういうコースを速いスピードで走破するので、ぜひ現地で直接見てもらいたいです。
――プロを目指そうと思った時期ときっかけを教えてください。
高校3年生のときに初めて世界選手権のジュニアクラスに出場しました。会場はスイスのルガーノという街。そのときは全くうまく走れなかったですが、「この競技を本格的に追求するのなら日本じゃない」と肌で感じました。というのも、全てが違ったんです。観客の多さ、コースの難易度、MTBに対する熱量やファンの多さ、自転車に対する一般市民の認知度――。そういう全部をひっくるめて「日本でやっている場合じゃない。海外でプロになろう」という決意を固めました。そのあと、専門学校を卒業して実際に海外へと拠点を移しました。
MTBに限らず、道路を走っていても日本とヨーロッパの走りやすさは全く違います。車の運転手も自転車競技への理解も、リスペクトもあって文化的な違いを肌で感じます。あとは日照時間の差も大きいですね。日本は夏でも夜7時ごろには日没になりますが、緯度の高いヨーロッパは9時半くらいまで日があるので2部練習もできます。あとは乗る環境が違って、海外はMTBに乗れる公認コースがたくさんあります。日本ではなかなか競り合う相手がいないんですが、海外、特にヨーロッパには切磋琢磨できるライバルが多いです。
負けたときは悔しいし、自分に足りない部分を感じられます。だから、自然と海外志向になっていました。今の心境は東京オリンピックも控えているので事情が少し違いますが、ついこの間まではそれを求めて海外で活動していました。
――海外の選手はなぜ競技力が高いのでしょうか?
シンプルに海外は競技者が多いので、日本のサッカーや野球のようにピラミッドが形成されています。若い人が一番多く、年齢を重ねていくごとに研ぎ澄まされた人だけが残ります。そうした力のある選手がナショナルチームに入って世界選手権やワールドカップ(W杯)に出てくるわけで当たり前のように強いし、走れる人が残るということですね。
その点、日本はまだまだ競技人口が少ないです。日本は仕事をしつつ少し余裕のある人がMTBをやっている場合が多いですね。それはそれでいいですが、競技として考えるともっと増えていく必要性があると感じています。「知らない、やっていない、環境がない」というだけなので、やれば絶対に日本人も世界に通用します。そのためにはまず認知度の向上と普及。環境が整えば子どもたちも絶対に乗りやすくなると思います。
――実際にプロとして競技を続ける中で、辛かった経験は何でしょうか?
ケガとかで引退を考えたことはなかったですが、2015年に落車して骨折したときが一番辛かったですね。レース中に胸骨と鎖骨がぶつかって剥離骨折をしました。普通なら胸骨を折る人が多いらしいのですが、僕は胸骨の方が欠けてしまいました。そこが軸というか身体の中心なので、体のバランスが全部崩れてしまったんです。その年は初めて日本選手権で負けましたし今も元には戻っていないのですが、そこが自分の競技人生のポイントだとも感じています。
それでも、「世界でトップ10に入りたい」という思いで続けてきました。これは初めて世界で戦ったときに感じた思いで、それ以降ずっと言い続けていること。日本やアジアでは負けられないし、引退も考えませんでした。東京オリンピックが終わったら次のプランを考えています。
――2020年2月にアジア選手権を制して通算10勝ですが、優勝したときの心境はいかがでしたか?
その前の年に初めてアジア選手権で負けて、1年間ずっと悔しい思いを引きずっていました。「アジアでは絶対勝たないといけない」と自分自身に言い聞かせて過ごしてきたのに2位になってしまったので、次のアジア選手権に向けてしっかり勝つために冬場を過ごしました。一つの目標が達成できたという意味ではとてもよかったし、少しホッとしました。
――その2年前、2018年に松本を本拠地としたDream Seeker MTB Racing Teamを立ち上げました。経緯を教えてください
それまでは海外を活動拠点にしていました。でも東京オリンピックが決まったときに自国開催であることと自分の年齢と、結婚もして家族がいることを全て含めて総合的に考えて「自分でチームをつくって一番やりやすい環境で東京オリンピックに挑むのがベストな成績を出せるのではないか」と判断しました。
オリンピックは北京大会の2008年から毎回出場して、ずっと日本では1位。裏を返すと若い選手が育ってないということでもあります。「東京オリンピックで現役を引退する」と宣言しているので、辞めた後は誰もいないことになってしまう。だから後進となる若手を育てたいという考えもあり、白馬村出身の北林力くんという若手を入れて一緒に活動しながら自分の経験を伝えています。
あとは年に1回のイベントを通じて普及も図っており、こうした活動を軸として立ち上げました。普及活動は単純にMTBの面白さを伝えたいというのが根底にあります。また、MTBに乗れる環境をまずは整備する必要性があるとも考えています。日本は公認コースが非常に少ないので、そこを変えなければ競技の裾野は広がっていきません。オリンピックの正式種目なのに練習場がない――というのは、他の競技ではあまりないケースではないでしょうか。
1年目はスポンサーを募るなどの活動がとても大変でした。ある企業からは「そんなこと選手がやるものじゃない」とお叱りを受けることもありました。ただ、今まで感じなかったことをいっぱい感じられることができましたね。今まではMTBの世界の中だけで過ごしてきたので、スポンサー探しのときにMTBのことを全くご存知でない方がほとんどで、認知度の低さを改めて感じました。大変でしたが、今となればいい経験。おかげさまで多くの支援もいただけて、よりいっそう活動に力を入れなければいけないと感じました。
――長野県との縁を教えてください。
北京オリンピックのときに松本市民になりました。2012年のロンドンオリンピックは海外を拠点としていたので、実家の北海道に住民票をいったんは戻しました。ただ東京オリンピックまでは松本で競技を続けようと考え、2017年にまた戻ってきました。どこが一番いいかを検討したときに、やっぱり「松本が一番だな」と。住みやすいし、知り合いもいるし、もちろん練習環境もあるので。標高の高い山が多く、高地トレーニングもできる松本市はベストな環境でした。
松本には2007年から出入りしているので、縁はもう13年くらいになります。一番のきっかけは(松本市在住の)鈴木雷太さんがいたからですね。僕は新潟県妙高市にある国際自然環境アウトドア専門学校マウンテンバイク学科の1期生なんですが、そこで特別講師だった雷太さんと出会って卒業と同時に一緒に活動させてもらいました。指導やアドバイスを受けながら活動することができたのは一番大きかったです。その後に雷太さんがMTB日本代表監督になって僕が選手の核になって、ずっと一緒にやれて今に至っています。日本選手権も富士見パノラマスキー場が会場になる場合が多かったので、長野県には頻繁に出入りしていました。
――自転車の視点から見た長野県の魅力は何でしょう?
家を一歩出ると、360度ぐるっと高い山に囲まれています。こういう環境は少ないと思うんですよね。北海道はもっと標高が低いし、他の地域はもっと小さい山が多い。長野県は北アルプスなどの標高の高い山がドカーンとそびえ立っていて、綺麗な山に囲まれています。こういう風景は本場ヨーロッパのアルプスに似ていて、すごく魅力的ですね。
壮大な自然がある一方、長野市や松本市などの街もある。渋滞は少なく過ごしやすい環境です。海はないですが、山菜や新鮮な野菜など美味しい食べ物があるし、あとは本物のアウトドアスポーツに触れ合える環境でもあると思います。冬はスキーにスノーボード、スピードスケート、クロスカントリースキー。夏は自転車はもちろんですが、山歩き、パラグライダー、湖を使っていろいろなアクティビティもできる。もちろん釣りだってできる。これだけのフィールドがあるのは、長野が一番だと思います。これだけぎゅっと詰まって多彩な楽しみ方ができるのは大きな魅力ですよね。東京までもそんなに遠くはありませんし、地理的にも絶好の場所だと思っています。
長野県は2000メートル級の山に簡単に行けるので大冒険ができます。それ以外も平地で例えば松本から大町、安曇野、白馬の方までフラットな道が続くので、ところどころにあるおやきやスイーツなどの美味しい食べ物を食べながら美味しい空気を吸って、綺麗な景色を見ながら、最後には温泉で締める――という贅沢な楽しみ方ができます。東京からのアクセスも悪くありませんし、新幹線で長野から白馬まで走ることもできます。ぜひ楽しんでもらいたいですね。
――長野県に根差した活動をされる中で、2017年には結婚もされました。競技の上で変化はありましたか?
大きく変わったことは、料理を作らなくなったことですかね(笑)。ただ、いい意味でオンオフがハッキリしました。今まで1人だったときは常にオンの状態でいることが多く、たまにプツンと緊張の糸が切れて暴飲暴食をする…なんていうこともあったんです。でもそういう波が全くなくなり、大崩れしなくなりました。あとは東京オリンピックに向けてもっと研ぎ澄まさないといけないので、子供も含めた3人でもっと協力していかなくてはいけません。大一番のときは違うスパイスをつけないといけないな…と、自分自身は感じています。
東京オリンピックは今までの集大成となる舞台です。僕は結構、一点に集中した方がいいタイプなので、その時期はあまり家族と接触せず、冬眠するようなイメージ。練習してそれ以外は冬眠のような状態でいて、本番のレースで爆発する――というピーキングを思い描いています。それはもちろん、家族の理解がなければできないことです。
――東京オリンピックへの思いをお聞かせください。
最終的には東京オリンピックでの8位入賞を目指しています。「出る」「出ない」というよりは、「出場する」というプランで日々を過ごしています。8位入賞すれば、少しでも多くの人にMTBという競技を知ってもらえるのではないかと思っています。もちろんメダルを取れたもっともっと…とは思いますが、自分自身の実力を客観的に判断すると難しい部分もあります。でも、8位入賞は高めていけば本当に狙える位置にいると思います。
それを通じてもっと広くMTBを知ってもらい、MTB業界で働いている方々や今まで関わってきた方々、支えてくれた方々に勢いを与えられるよう結果で恩返しをする。これが、今まで競技者としてやってきた自分のできることです。それがベストな終わり方ではないかと感じているので、まずはそれをイメージして、「爆発しようかな」という思いです。あとは日本のほとんどの方が本当のクロスカントリーのレースを生で見たことがないと思います。そういう方々に会場の空気感を味わってもらって迫力満点のレースを見てもらって、「こんなに楽しい競技なんだ」ということが伝わればうれしいです。
――ただ、東京オリンピックは延期となりました。どのように受け止め、どのように準備していきますか?
世界中が同じ状況です。僕自身は東京で集大成を迎えると決めていましたが、変わってしまったのはどうしようもないこと。ここまでやってきて、ここで諦めるわけにはいきません。ただこれはどうしようもないことなので、それを新たなパワーに変えるしかありません。身体もメンタルも一度切り替える必要がありますが、しっかりと切り替えることでまた生まれるパワーもあると思います。選考される可能性が高いところまで来てはいたので、この後の選考方法はまだ不透明ですが、今できることを全力でやって延期後の東京オリンピックでいい成績を出せたらベスト。延期された1年間にまた出会える人たちもいっぱいいると思うし、その分だけ自転車と向き合える時間が増えたので、プラス思考で取り組んでいこうと思っています。
インタビュー 大枝 令